​絵画制作・販売の千画本舗

© 2019 by Chiga Honpo

精神的交接


溺れているようだ。


「自分」と「それ以外」を隔てている境界線が水中で溶け出して、絵の具のように混ざり合う瞬間がある。おそらく、なんらかの脳内麻薬が大量に出ている。肉体的苦痛を和らげ、むしろ快楽として認知させるためだ。


混ざり合う絵の具は、一瞬だけ美しいマーブル模様を見せる。最も美しい瞬間をスマートフォンのカメラで切り取って、綺麗な修辞で飾り付け、額に入れて飾っておきたい。きっとそんな人は多い。


例えばそれは「絆」という言葉か、いや「愛」「愛情」と言う方が適切かもしれない。愛に溺れるとはよく言ったものだ。あるいはもっと直截的なエロスで塗り固めたモノかもしれない。


なんだって構いやしないのだが、大抵、2色の絵の具を混ぜ合わせれば汚く濁るものだ。


深味を帯びるという見方もできるだろうが、それは例えば赤にほんの少し緑を混ぜることで生まれるようなもので、色彩の主従関係のもとに成立する美的効果である。また「深味」というのは鮮やかさとの設計的な対比や照明の効果によって初めて価値を帯びるものであり、それ単体では視認性が低く、スポットライトが当たらなければそのまま闇に葬られていく。


一瞬の美は、次の瞬間には輝きを失う。最終的には汚物の如く水に流されて、綺麗さっぱり「なかったこと」にされるものだ。


美しさと醜さは互いを引き立て合うために両立する。群れの中の一羽の鶴は目を惹かなくとも、掃き溜めの中の一羽の鶴は美しさが際立つ。愛憎も同様だろう。宝石のように希少な美しい愛の周りには、土塊のような憎しみが際限なく散らばっていたりする。その対比が極端であればあるほど美が際立ち、人はその魔性に溺れる。


溺れたくない。


境界線を堅持することで自分を守りたい。最も快適なレイヤーから世界を俯瞰していたい。そうしないと世界はたちまち混濁し、肉体は意識の支配を離れて暴走する獣になる。獣の飼育には社会的責任が伴う。


愛には憎しみが、美しさには醜さが、富には貧しさが、健康には病が、善には悪が、光には闇が、価値には無価値が、「必要不可欠」なトレードオフの関係だ。誰もが自分自身を前者のようなブライトサイドにいるものだと認識したがり、後者のようなダークサイドについては(特に目的がない限り)眼中にないものである。


愛し合う瞬間にその先にある憎しみのことなど考えないだろう。ヒトの脳はそういう風にはできていない。そして、愛に憎しみがつきものだとしても、憎しみは愛を担保してはくれない。光があれば影ができるが、影が光を産むことはない。


そんなイザコザを背負ったまま生きる力は、徐々に必要なくなっていくかもしれない。「年取って丸くなった」それは溺れることを回避する術を身につけたという話かもしれない。暗闇の中、あるのかないのか分からない光を探すようなゲームから降りたという話かもしれない。


溺れる者は藁をも摑む。


人知れず沈みゆく身体。気管は水で満たされ、呼吸ができない。遠のく意識の中で摑まされたのがただの藁だったなど、俯瞰で見れば目も当てられない状況だ。


だから、そもそも溺れないように、シャットアウトする。洪水のように私の心を満たす、甘い誘惑の言葉を。それも一つの生き様だ。


精神的交接には、いつ消滅するとも知れない一瞬の愛と引き換えに無限大の憎悪をもたらす危険性がある。だが、そのようなドス黒い感情を塗り替えようと、一瞬一瞬、愛を積み重ね続ける営為を、ある人はこのように表現した。


「愛し合うことだけが どうしてもやめられない」 (プラネテス / 幸村誠)

宇宙の如き闇の中で生きる運命を受け容れ、それでもなお愛し合い続けることを誓った、ちっぽけな人間のレジスタンス宣言に聞こえてくる。


運命の濁流に呑まれることから最期まで逃げ果せることができるかどうか、そんなことは死ぬまで分からない。生きている以上、大いなる力によってダークサイドに堕ちる可能性などいくらでもある。天変地異か、テロか、凶悪犯罪か。


人々の心は、運命の濁流に呑まれて境界線を喪い、混ざり合ってグチャグチャに濁り、醜い色になる。だが、混ざり合う直前、互いの境界線がギリギリ保たれている時に、最も美しいマーブル模様を描く瞬間がある。


その一瞬の美を祝福しよう。それが前途を乗り越えるのに十分な力の源泉となることを祈ろう。そのためならどんな美辞麗句も並べてみせよう。